今、四谷新生教会の執事会では教会ホームページの中味について話し合っている。
教会のホームページには様々な情報が掲載されている。そしてその殆どが伝道熱心ゆえのページだ。その一つに「Q&A」がある。初めて教会を訪れた人のシチュエーションを想像してその心配事困りごとに応えようと意図されている。そこには6つの問いが書かれている。「教会は誰でも行くことができますか」「礼拝では何をするのですか。いきなり行ってついていけますか。」「礼拝に参加するのに、何か持っていくものはありますか。」「礼拝にはどんな格好で行ったらいいですか」「子連れでも大丈夫ですか」「一度行ったら、続けて行かないとだめですか。」。
ページを立ち上げるときに時間をかけて準備し、創造力を巡らせて造り上げたことが良くわかる。初めて来る人、行ってみようかと迷っている人の側でサポートしようという気持ちが伝わってくるようなページだ。
だけど決定的に問題なのは、これらの設問が教会内部の考え方から始まっているということ。それはある意味致し方ないことではあるのだが。だけど、わたしたちには自分の身の回りにたくさんの非教会的・非キリスト教的人々がいるはず。そしておそらくそういう方々から様々好奇な目で見られ、訝しがられ、家族からさえもそういう見方をされているだろう。
今日から受付のテーブルに置かれる小さな紙には、そこでの声を寄せてほしい。皆さんが普通に暮らしているときに、家族や周囲からかけられた言葉、場合によっては浴びせられた言葉・投げつけられた言葉、或いは答えに窮し呆然となった言葉。それこそが教会の外の「真実の言葉」だから。
そういう言葉の中でわたしたちはクリスチャンとして生きている。だから「生きていることそれだけで『伝道』」なのだ。立ち尽くし呆然とすることもまた『伝道』なのだ。